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 私は国家を統治する主要な機関で働くレアる・ロワゐ。名前に意味はない。今や、名前は意味を持たない。数十年前は、名前に希望や願いを込めるという風習があったと聞く。生まれたときから親もいないので、私の名前を誰がつけたのかは知る由もない。少子高齢化、貧困問題、長時間労働、数多のハラスメント。世の中に立ち込める暗いニュースによって、人々は現実に夢を見ることが困難になった。何か希望を口にすることが憚られる世の中。挑戦を叩く人々によって、誰も望む未来を口にしなくなった。世界の色はどんどん失われていく。

 二○XX年、暗澹とした世の中にとどめを刺すように、私の属する機関はある制度を発表した。その名も「お手製未来」。人々は、全国の主要都市に置かれた施設内のカプセルで、自らの手で作り上げた未来を見ることができた。未来は、カプセルに設置された十一インチのタブレットに表示される選択肢に従うことで、簡単に選びとることができる。宇宙飛行士、野球選手、アイドル。お手製未来では、夢を叶えた人の体験をもとにCGで作られたというVR空間に没入することができた。現実よりもリアリティがあると、もっぱらの評判だ。瞬く間に話題となり、お手製未来を見る時間を国は労働と見做した。

 私はお手製未来を管理する施設の中で働き、「bN/」と呼ばれる箱を守る仕事をしている。上司は、「誰にでもできる仕事じゃない。お前だからできるんだ」と私の肩を叩くが、私は箱に何が守られているかを知らない。ただ、箱の中身はお手製未来を見ている人々のカプセル内から抽出される、貴重なものであるらしいことは確かだった。


 ある日、施設内の休憩室で「上司」たちが話しているのを聞いた。

「カプセルは連日大盛況。あいつらの中で夢を見る人が増えれば増えるほど、統治がしやすくなるから助かるよ」


 また、あるときはカプセルに入る待機列に並ぶ人に話を聞いた。

「なぜ、そうまでして夢を見たいのですか」

「子どもが欲しいのに、産みたくないんです。だって、将来が今よりひどい状況になってしまったら、と考えると不安でしょう。私の子どもにまで苦しい思いをさせたくない。だからせめて望む未来を、夢を見たいんです」


 私には「カプセルで夢を見る人」のように感情が備わっているわけではない。そのため、話を聞いてもなお、カプセルにこぞって入り、夢を見る心理状態はわからなかった。

 ただ、人は感情があることで、傷ついたり傷つけたりすることに疲れたようだった。

 お手製未来のVR空間にいるとき、人々に感情の起伏はない。なぜなら、そこには人間同士の貶め合いも、不条理も、悲哀もないからだ。

 今日も曇天の世界で、液晶モニターの中ではせわしなくアナウンサーと呼ばれる人物が惨事を伝えている。


「ロワゐ。『bN/』にちゃんと鍵は閉めただろうな」

 私の上司は、業務を終了する前に必ず聞く。

 「bN/」は、厳重な取り扱いが必要とされる。私が一日中、何も生み出さず、誰にも必要とされずにぼんやりと空を眺めていようとも、この箱に鍵をかけ忘れることだけは断じて許されない。

「『上司』。鍵はしっかりかけました。本日も箱の中身は以上なしです。カプセル希望者が前日よりも五十八人増えたため、保管二六一号室にはもう箱をしまいきれなくなりました。箱を新たに収納するため、保管二六二号室を十四時三十六分に開放しました」

「それでいい」

 上司は、今日も満足そうに頷く。


 ある朝、上司に尋ねた。

「私は一体、毎日厳重に何を管理しているのですか」

「ロワゐ。私たちがこの箱を管理することで、世の中に反乱を起こす者がいなくなる。私たちは世界を平和に保つ名誉な仕事をしているのだ」

 上司の言葉は、抽象的で実体を伴っていないように思えた。

 正直なところ、上司の言葉の意味を深くは理解できなかったが、「偉い人」が管理することに生きがいや喜びを見出しているようにも思えるこの箱には、何か秘密が隠されていると感じた。

 なぜ、人々がカプセルに入るのか。

 そして、なぜ「偉い人」が人々の「何か」を搾取し管理するのか。

 謎を突き止めるため、私は箱の中身を開けてみることにした。


 夜勤後、「bN/」の保管室に鍵をかけることが日課になっていたため、そのタイミングで私は計画を実行することにした。静まり返った施設内には監視カメラや赤外線式の人感センサーが仕掛けられている。ただ、私はセンサーに検知されない。そもそも、「bN/」を守る役割を担う私が箱の中身を開けたとて、何も不審がられることはなかった。

 私は廊下に誰もいないことを確認すると、保管室に忍び込み部屋の内側から鍵をかけた。


 毎日飽きるほど目にする、表面が鉄で覆われた気泡コンクリートの塊を眺める。指紋認証式の箱は、私のように感情を持たない限られた人物しか開けることが許されない。熱を持たない箱の指紋センサーを指でなぞると、カチ、と僅かに音を立てた。中身を慎重に取り出す。ボルドーのベルベットの内装の中心には、試験管が収められていた。今にも割れそうな薄いガラスを満たしていたのは、まるで天使の吐息のように細かく繊細な光を放つ気体だった。


 私には、カプセルに自ら入っていく人々のように感情はない。ニュースを眺めていてもわからないことが多い。誰と誰が戦っているのか。それは何のためなのか。終わりは来るのか。

 ただ、私と同じように感情を持たない無機質な箱の中から現れた目を奪われる「何か」を見たとき、一つだけわかったことがある。

 彼等が「お手製未来」と引き換えに差し出すものは、曇天の世界を揺るがす原動力を内包した唯一のものであるということだ。








 


 私がいつだって待っていたのは、春でも秋でも冬でもなかった。

「梅雨前線と低気圧の影響で関東甲信地方を中心に発達した雨雲が流れ込んでいて、気象庁は六日『関東甲信地方が梅雨入りしたとみられる』と発表しました。関東甲信地方の梅雨入りは平年より一日、去年より八日、いずれも早く……」

 毎年、この時期になると、世の中はどこか陰鬱な雰囲気に覆われる。それもそのはず、湿気で洗濯物は乾かなくてカビ臭いし、ジェルのスタイリング剤をつけてもアホ毛は元気に飛び出すし、電車の中はどことなく雨と汗の臭いが混ざって、気分が悪くなってしまう。しかし、私は梅雨の訪れが、たぶん、世界中の誰よりも好きだ。アルバイト代を握りしめてルミネで水玉模様のワンピースを買ったり、美容院に行ったり、お気に入りのシャーベットカラーのネイルを塗ったりする。過去最高の自分を更新するために、最善を尽くすのだ。


 そして、雨がどこかに姿を隠してしまった頃、最初からそこにいたかのように夏はやってきた。


「久しぶり」

「久しぶり、りっちゃん」


 夏は、私が住む古民家の庭に、咲き乱れる朝顔と一緒に立っていた。麦藁色のTシャツからすらりと伸びた右腕を、軽くあげる。一年ぶりの会話は、拍子抜けしてしまうくらいシンプルだった。私たちが共有しなかった時間は、一緒に過ごした日々を塗り替えはしない。

「では、早速」

 桃一個分身長の高い夏の鼻先に、A4のルーズリーフを一枚突きつける。

「何これ」

「見ればわかるでしょ、やりたいことリスト」

 2Bの鉛筆で一番上に書いたのは、スイカを切って食べる。私は早速、アルミのバケツに氷水で冷やしておいたスイカを半分に切り、夏に銀のスプーンを渡す。私は、スイカはそのまま食べる派だけれど、夏はブランデーをかけるのが好き。甘くないスイカのときは蜂蜜までかけるのが、夏流だ。

 スイカを食べ終わったらかき氷器を引っ張り出して、一緒に氷を削った。目一杯ハンドルを回す私の横で、夏は氷の山を形作るガラスの器の位置を微妙に変えて調整してくれる。今は電動のかき氷器もあるんだって、と夏が真剣な眼差しで氷の山の先を見つめると、氷をゴリゴリ削るこの感覚が好きなんだよ、と私はハンドルをにぎる手に力を込める。ハンドルの回転に合わせて目がきょろりと動くオレンジ色のくまのかき氷器は、一昨年の夏にアンティークショップで見つけたお気に入りだ。私は、出来上がったかき氷にいちごとブルーハワイのシロップを半分ずつかけるのが好きで、夏は練乳をかけるのが好き。色が違うだけでどれも同じ味だと夏は言うけれど、カラフルなシロップが氷を溶かしている様を見ると、なんだっていいやとも思う。


 夏とやりたいことリストを線で消していく日々は、片手で数えられると錯覚してしまうくらいに、あっという間だった。 

 河口湖のキャンプでは焼いたマシュマロを、夏は目を細めながら慈しむように頬張った。

 花火大会では夏の周りの気温が急激に上昇してしまうので、バケツを持って近所の公園で手持ち花火をした。綺麗だね、と目を輝かせて、くるくると形を変えていく小さい火の玉を嬉しそうに眺める夏の横顔は、年をとらない。夏といると、アンティークショップで世界に二つとないガラスのブローチを見つけたときのように、体温が少しずつ高くなる。それがどうしようもなく嬉しいのに、落ちていく火の玉を見るのは好きになれなかった。



「太陽が沈まなければ夏がずっとここに留まり続けるなら、私は太陽を捕まえに行く」

 風を浴びに行こうと出かけた家の近所の河川敷で、西日に照らされて走るサッカー少年を見つめる。夏が来た頃より、誰にも気づかれないくらいに短くなった黄昏時が、恨めしかった。

「無理だよ。りっちゃんは逆上がりもできないし跳び箱だって飛べないんだから」

「なんでよ。今はできなくてもやりたいと願うことさえ罪になるなら、私はもう懲役百万年だよ」

「そんなに」

「うん。だってさ、夏と一緒に雪だるま作ったり雪合戦したりするでしょ。それで一緒に大きいかまくらを作って、中で焼いたお餅を食べるでしょ。あとは一緒にスキーに行って、ゲレンデのレストランで醤油ラーメンとカレーを半分ずつ食べる」

「りっちゃんは、食べることばっかだな」

 私は、白くて冷たい塊を口に含む。半径二百メートル以内のコンビニで買った幸せは、あずきとパイナップルと黄桃をたっぷりと練乳で包んだまま、ぽとぽととこぼれていく。地面に落ちていくアイスを眺めながら、さらりと砂の落ちる音が聞こえた気がした。

「りっちゃん、またこぼしてるよ。ほら」

「夏は知らないと思うけど」

 私はじんわりと滲む視界をごまかすように、生まれたばかりの白くて小さな水たまりに一生懸命群がる蟻を見つめる。

「このアイス、練乳いちご味もあるんだよ」

 秋冬しか売っていない、特別な味だ。

 私はいつだって、夏と一緒に季節を食べたい。願うことさえ罪になるのなら、私が今日も一秒ずつ時を重ねていく意味なんか、知らない。

「食べたいな。りっちゃんと一緒に」

 夏は、光る川面を見つめる。私は、夏の諦めたような、満たされたような横顔が嫌いだった。

 前方を、老夫婦が歩いていく。二人にしかわからない言葉や思い出を語り合いながら、二人だけの足取りで、ゆっくりと歩いて行く。二つの背中は、年月を重ね合った者だけがそうなれるように、どこか似ている。

 気がつくと、発光する街灯にはユスリカが群がっていた。夕と夜の境目が解けた季節はいつだって過不足なく静かで、耳を澄ませば飛び交う命の羽音さえ聞こえそうだった。

「また会おうね」

 声だけが、暗闇に居場所を求めるように迷子になった。


 鱗雲が空に浮かぶ頃、初めからそうだったかのように、夏は私の前からいなくなった。


 扇風機の風を浴びながら畳の上で横になっていたときの、夏の言葉を思い出す。

「りっちゃんは、面倒くさがりだよね。スイカの種はそのまま食べちゃうし、カレンダーはいつまでたっても六月のままだし」

 夏の言葉は、半分当たっていて、半分外れている。夏は私のことをとっても面倒くさがりだと思っているけど、違う。夏と過ごした時間を「楽しかったね」の一言で、べりっとめくって捨ててしまいたくなかった。


 陽炎はもう見えない。けれど、一緒に寝転んだ畳やアスファルトの道路に残る熱が、夏を思い出させる。縁側でいつの間にか香っていた金木犀の香りを吸い込むと、前より溶けるのをためらう夏の味を齧った。






 

©2022 Akari Umino

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